451のミニベロ

ミニベロで、雨の心配のない日の自転車通勤や、週末のサイクリングを楽しんでいます。
それから、雪のシーズンには山でテレマークスキーをしたりもしていましたが、このところは古墳めぐりが大好きになりました。
※ 2008年11月 に「OCNブログ人」で始めたブログですが、そのサービス終了のため 2014年10月 こちらに移ってきました。

2017/03

秩父の古墳めぐり 大野原古墳群

大野原古墳群は、かつては百八塚とも呼ばれていたとのことで、
秩父では、先の飯塚・招木古墳群に次ぐ規模の群集墳であります。
4つの支群(黒草、大野原、蓼沼、下小川)に分かれているのですが、
そのエリアは、他の秩父の古墳群に比べて、
圧倒的に広いのであります。

P1440153
■大野原駅で下車し、歩き始めてすぐの愛宕神社。
 この社殿の下が24号墳。

P1440155
■裏に回ると、古墳の雰囲気が残っております。
 径13mということでありますが、作られた当時はもっともっと、
 大きかったのではと思えた古墳でありました。
 この古墳は、大野原支群の1基でありますが、
 周囲は開発が進んで古墳はほとんど残っていないのでしょうか。
 大野原字「宮崎」あたりは古墳が多く、四十八塚とも呼ばれていたと、
 「埼玉の古墳」に記述がありました。

P1440158
■横瀬川に削られ崖のようになっている箇所を歩き、

P1440160
■大野原古墳群下小川支群。
 手前の7号墳と奥の6号墳。写真には写っていないけれど、
 右側の藪には8号墳らしき墳丘が。
 7号墳は石室が開口しております。

P1440166
■7号墳の裾からみた6号墳。
 「埼玉の古墳」では、5基の円墳が南北に並んでいて、
 「五ツ塚」とか「五王塚」とか呼ばれていたとのことであります。
 そのうちの2基。

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P1440173
■削平された古墳の葺石が由来かもの、石が積まれた場所があって、
 雰囲気のある場所であります。
 
 これで、古墳の本「さいたま古墳めぐり」の秩父5か所を追加して、
 完遂まであと3つということになりました。
 また本からは漏れているけれど、秩父ではほかに、
 石室が完全に露出した大渕古墳や、国造の推定場所の一つの国神塚古墳、
 現時点最大の稲穂山古墳、久那の氷雨塚など見てみたいし、
 それから小鹿野の古墳と秩父事件の現場ももっと丹念に見てみたいのであります。
 今日、まず皆野に行ってとか考えておりましたが、
 冷たい雨だったので、またの楽しみとしました。

秩父の古墳めぐり 飯塚・招木古墳群

P1440179
■「招木古墳通り」を歩いて、先の秩父鉄道をくぐり、
 荒川にかかる和銅大橋を渡ればすぐ、120基以上の円墳で構成された、
 秩父最大の群集墳、飯塚・招木古墳群であります。

P1440181
■車道まじかの89号墳。
 この車道建設時にそれにかかる円墳7基の発掘調査が行われ、
 そのうちの一つをここに移転復元したということであります。

P1440184
■南側から。
 この古墳群の石室はすべて武甲山を向いていると、
 何かで読んだ記憶があるのですが、 資料を探せませんでした。
 気のせいかもであります。


P1440182P1440183
■現地案内板。

P1440186
■飯塚地区の古墳群。
 道の右にたぶん71、70号墳と、左にたぶん2号墳。

maneki
■上の写真は、青矢印の方向で撮ったもの。
 先の復元古墳の89号墳は、赤矢印であります。
 図は、古墳探訪の記録を、豊富な写真でPDFにされている方から、
 勝手に持ってきてしまった迫力のある分布図。
 明確に2群に分かれていて、左上が飯塚地区、右下が招木地区。
 飯塚地区の中央部に、比較すれば大型の円墳が2基が、
 並んでいるとうのがよくわかる図であります。

P1440192
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■6、7、12、16号墳あたり。
 近づけばグイッと高さがあるのがわかるのであります。

P1440196
■円墳とキジ。

秩父の古墳めぐり 狐塚古墳

秩父鉄道「影森駅」で下車して、この日初めに見に行った古墳であります。
P1440132
■もうこのあたりだろうと宅地をトコトコ歩いていたら、
 だいぶ近づいてから家のカゲにある古墳が見えてきました。
 ただ事前に見知ったイメージとはかけ離れていたのであります。

image038
■いつの写真かわからないけれど、秩父市のサイトから。
 事前のイメージでは、この写真のように、
 まっすぐの檜が数本と墳頂の社が目印の、畑の中の雰囲気のある古墳でしたが、
 檜は切られてしまったようであります。

P1440139
■それでも隙間から見える古墳は、
 長径24m、高さ4mのボリュームを感じます。
 左の家との境に、おそらく案内板が見えているのだけれど、
 近づけずでありました。

P1440139-2
■拡大。

P1440134
■西側に回っても近づけず。
 急な盛り上がりであります。右奥に武甲山。

P1440135
■南側に回っても近づけず。
 墳頂の稲荷社はしっかり大きいのであります。
 結局、墳丘に登って稲荷社で手を合わせるのはあきらめて、
 次の古墳に向かったのでありました。

IMG_0015
■これは、分布調査報告書のタイミングで詳細調査をした時の、
 古墳の実測図であります。変形を受けているせいなのか、
 一見四角の方墳のように見えるのであります。
 東側に2本、南側に1本のトレンチ設定でありますが、
 周堀は確認できなかったとのこと。
 広くはないけれど平地の古墳でありますので、
 周堀がないとは考えにくいし、だからこそのトレンチ調査であります。
 であれば、周堀はもっと外側にあったのか?
 だとすると、30mを超える古墳だったのかしら。
 古墳の本「さいたま古墳めぐり」では、この古墳を、
 現存する秩父地方最大の古墳としていますが、
 かつての姿も最大級だったのかもと思わせる調査結果でもあります。
 うみゅ。
  ※分布調査報告書
    『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』 埼玉県立さきたま資料館(1994)埼玉県教育委員会.


秩父の古墳めぐり 皆野大塚古墳と疑問

P1440209
■大塚の名にふさわしい大きな円墳であります。
 現地案内板によると、径33mの円墳ということであります。
 古墳の本「さいたま古墳めぐり」では、この古墳は径18mで、
 秩父では径24mの狐塚古墳に次いで、2番目に大きいということでありますが、
 現場ではやっぱり30mクラスの大きな円墳に見えるのであります。

 そもそも、円墳の径が何mなのかは、残存している墳丘の実測値の場合と、
 周堀の調査からその内径が推定された場合があり、
 私はそれを区別しないで使っているのでありますけれども。

 して、だとすると、径33mは秩父で一番大きいということになりますが、
 「埼玉の古墳」では、竪穴式石室と同様の作りで横口を持っているという、
 たぶんあまりない過渡期の様式なのかもの、
 「稲穂山古墳」について記載があり、それは径38mであります。
 蓑山の西麓にあり、河岸段丘との比高100mと書かれているので、
 この大塚古墳からさほど離れていない場所にあると思われますが、
 分布調査報告書にはその記述がないので場所がわからないのであります。

 秩父地域で一番大きかった古墳はどれなのか?
 これが素朴な疑問であります。
 発掘調査後に大きさは改訂されることは当たり前にあるし、
 長らく円墳と思われていたものが実は前方後円墳だったとかいうのも、
 無いことではないので、現時点でのということでありますけれども。

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■菜の花と古墳。

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■すごく立派な看板というのかなんというのか。

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■墳頂に登る階段の左側に、石室が開口しております。

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■先の「埼玉の古墳」にちょこちょこ掲載されている古い資料図の、
 右端はこの大塚古墳であります。
 幕末から明治という激動の時代に書かれたこの図でも、
 墳頂の社に登るための階段が見て取れるのであります。

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■鉄格子の隙間から覗いた石室内部。

P1440208
■現地案内板。

秩父の古墳めぐり 金崎古墳群

この古墳群を見るまでは、
誇張しすぎじゃなかろうかと思っていたことがあったのです。

P1440276
■「埼玉の古墳」にちょこちょこ掲載されている古い資料図。
 描かれている古墳は、金崎古墳群のものではなくて、
 秩父の他の古墳なのでありますが、
 とても雰囲気というか味のあるスケッチで、見入ってしまうのであります。
 ただ、石室の大きさや、開口具合、墳丘の盛りなど、
 迫力を出すために、実際よりも大げさに書かれているんじゃなかろうかと、
 そう思っていたのであります。
 でも、違ったのでありました。

  ※埼玉の古墳
   塩野博(2004) 『埼玉の古墳:児玉』 さきたま出版会.



P1440248
■金崎古墳群、大境2号墳。

P1440258
■金崎古墳群、大境3号墳。
 迫力であります。
 両方とも大人が立って歩ける大きさの石室が開口しております。
 古墳の本「さいたま古墳めぐり」には、この古墳群について、
 県内でも屈指の楽しい古墳と書かれていますが、
 そこには大いに同感なのでありました。
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P1440233
■金崎古墳群、大境2号墳。
 開口しているのは玄室部なので、墳丘の周囲は削られ、
 コアの部分しか残存していないということでありますが、
 板状の石を横置きに積み、持ち送りにしてRにした石室を見るにつけ、
 よく残っているものだと感心するのであります。

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■西から。
 立派なケヤキががっつり乗っております。

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■金崎古墳群、大境1号墳。
 金崎古墳群に現存している4基の古墳のうち、
 この古墳だけが開口してないということであります。

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■その大境1号墳の墳頂から見た、メインイベントの大境3号墳。
 ピーナツ?
 径20mに満たない円墳ですが、もっと大きかったのではと思わせる、
 雰囲気がありました。

P1440254
■ピーナツのクビレ部から。
 立て掛けてある案内板の手前の平たい石は、
 崩落した天井石なのでありますね。

P1440253
■拡大。

P1440255
■墳丘の上にある立派な案内板。

P1440262
■木の階段で下におりて、

P1440258
■石室正面。迫力があります。
 これ以上の崩落を防ぐ補強工事がされていて、中には入れません。

P1440261
■隙間から覗いた内部。
 とても丁寧なつくりであります。

P1440265
■少し離れた南側から。
 変形を受けたにしても不思議な形であります。

P1440221
■大境1~3号墳から、少し離れた金崎神社のすぐ西側にある天神塚古墳。
 氷雨塚とも呼ばれていたとのことであります。
 番号で言えば大境4号墳。

P1440222
■天神塚古墳。

P1440225
■西側から。

P1440229
■開口しております。

P1440227
■張りのない直線基調の石室であります。

 して、秩父には氷雨塚と呼ばれていた古墳がたくさんあって、
 それだけ開口していた古墳が多かったということだと思うのでありますが、
 この古墳群でも、先の3号墳も氷雨塚と呼ばれていたかもということであります。
 「埼玉の古墳」には、幸田露伴の「知々夫紀行」の引用もありますが、
 この金崎古墳群については、とても興味深いのであります。
 その一部。
 「...氷雨塚というもののこのあたりにあるべきはずなるが知らずやと問えば、
 そのいわれはよくも知らねど塚は我が家のすぐ横にあり...」
 「...大淵、小柱、金崎、皆野、久那、寺尾等秩父郡の村々には
 氷雨塚と称うるもの甚はなはだ多く、大野原には百八塚などいうものあり...」
 それから、この「知々夫紀行」の最後は、深谷から汽車に乗った幸田露伴が、
 コーノスで降りて、人力車を走らせて吉見百穴を見てから、
 また引き返して汽車に乗ったということを、初めて知りました。
 にしても、往復20km以上の距離を、人力車は走るのでありますね。
 それがすごいと思うのでありました。

秩父の古墳めぐり ルート

古墳の本「さいたま古墳めぐり」を完遂をめざすべく、
ポカポカ陽気の一日、秩父に行ってきました。
秩父鉄道を利用した徒歩の古墳めぐりでしたが、
予定していた5か所をすべて見ることが出来て、満足なのであります。

P1440129
■まずは「影森駅」まで行きました。
 この駅は以前、有馬峠に行ったとき以来であります。

P1440141
■そこから「狐塚古墳」を見た後、「お花畑駅」まで歩く途中に見上げる武甲山。

P1440147
■「お花畑駅」で立ち食いました。

P1440149
■駅近くの観光案内板。
 やっぱりそれは「狐塚古墳」ということでいいじゃろか。

P1440150
■「大野原駅」で下車。ちょうどSLが見れました。

P1440152
■なんだかラッキーであります。

P1440170
■横瀬川がグイッと削った「大野原古墳群」の立地に関心して、

P1440178
■グーグルまかせの道を歩き、

P1440203
■和銅大橋で荒川を渡り、「飯塚・招木古墳群」を見て、

P1440205
■戻って荒川右岸を歩き、「大塚古墳」を見て、

P1440214
■うなぎのいい匂いのする「皆野駅」から乗車して、

P1440217
■「親鼻駅」で降りて町を歩き、

P1440219
■親鼻橋で荒川を越えて、

P1440231
■「金崎古墳群(大堺古墳群)」にすごく感動して、

P1440269
■「上長瀞駅」から帰途についたのでありました。

秩父の古墳

宿題となっている古墳の本「さいたま古墳めぐり」の完遂でありますが、
残っているのは、秩父の6か所であります。
児玉の普門寺古墳群白岩古墳群については見に行ったものの、
その群の墳丘を一つも視認できていないので、
これも残っているうちでありますけれども。

P1440112
■改めて本を見直していたら、番外編が3つあるのを思い出しました。
 やっぱりこれも見ておかないと完遂とは言えないのかしらと思いつつ、
 「さいたま」古墳めぐりで、古代ロマンの70基でありますから、
 まぁその70基を見たら、完遂ということでいいじゃろと、
 自分に言い聞かせるのでありました。

 それはそうと、秩父の古墳は小鹿野も含めて丹念に回ってみたいとも、
 思っておりましたが、まずは荒川沿いの5か所を見ておくのも、
 勉強だろうと思い直しましたので、それを明日実行することにしました。
 
 秩父鉄道を利用し、乗車下車を繰り返し、徒歩で歩いてみる。
 そんな計画であります。
 朝夕の利用者が多い時間帯以外は、1時間に2、3本の間隔でありますので、
 待ち時間は、不勉強な部分を読書で補ったりしながらであります。
 なんだかちょっと面白そうな気分になってきました。
 
 

再び嵐山周回

P1440096
■行司免遺跡。

3_03illust
■嵐山町のweb博物誌「丘陵人の叙事詩」から勝手に持ってきたイラスト。
 走った大体のラインと場所を赤字で追加しました。

 所有のガイドブックに載っていない古墳の有り無しや、
 その位置も含めた基本情報、見つけた古墳の同定情報などは、
 埼群古墳館 様より得ております。Powerd By であります。
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P1440055
■西原古墳群6号墳?
 東松山市の北東端でほとんど嵐山の場所であります。
 嵐山町の寺山古墳群のエリアと言ってもいいくらい近接しております。

P1440056
■残っているかもしれない西原古墳群7号墳を探して、
 住宅地をウロウロしましたが、見つかりませんでした。
 ここは不思議に開発されていない一角。

P1440065
■国立女性教育会館。
 いままで敷地内に入ったのは数えるほどであります。

P1440061
■広い敷地で、段丘に建てられているので、眺めがよいのであります。

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■敷地内にある寺山1号墳。西側から。

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■南東側は藪がひどく、近づいてもはっきりしないのでありますが、
 こちら側からは高さを感じました。

P1440071
■それから、また山王古墳群に行って、
 「オオムラサキの森」下部に隣接する「蝶の里公園」。
 このまま車道を下れば、都幾川の桜堤であります。

P1440073
■冬枯れで見通しのいい、気持ちのいい公園を、
 自転車を押してテクテク歩き、

P1440075
■山王古墳群14号墳。
 写真ではよくわかりませんが、肉眼では高さがありました。
 この東側に13号墳があって、やはり肉眼ではわかるのでありますが、
 撮れた写真はただの笹薮にしか見えなかったので、省略しました。

P1440080
■14号墳の場所からすぐ、河岸段丘の傾斜がきつくなっております。
 先に見える田んぼに下り、右奥に見える尾根に回り込んで、
 石堂古墳群に行きました。

P1440082
■石堂古墳群1号墳。

P1440084
■石堂古墳群2号墳。

P1440083
■墳頂にある石は葺石だろうか。
 3号墳も肉眼ではわかりましたが、写真ではただの藪でありました。

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■石堂古墳群から戻る道。
 大平山がきれいに見えました。

P1440092
■橋をわたり、都幾川の右岸。
 いわゆる都幾川の桜堤であります。

P1440097
■行司免遺跡。
 ピラミッド型の鉄骨は井戸跡で、その隣に案内版。
 今は、飼料用?のトウモロコシ畑になっております。
 右奥の赤っぽい建物は、先の国立女性教育会館。

P1440099
■井戸跡。

P1440101
■案内板。
 乾いたふかふかの畑の土で、靴がすごいことになりました。
 その後、大蔵館跡から笛吹峠に向かう登り坂を500mほど上がって、
 
P1440108
■粟津ヶ原古墳7号墳。
 
P1440110
■裏から。
 粟津ヶ原古墳群はS34(1959)の時点では、
 小円墳が7基あったということでありますが、道路工事などで、
 今は2基だけ存在するということであります。
 羽黒塚と呼ばれていた古墳があったということなので、
 この7号墳はそうなのかもであります。うーむ。
 にしても、今まで単に気持ちがいいからと選んで走っていた道でありますが、
 また違った気分で走れて楽しいのでありました。

嵐山町・山王古墳群の疑問

古墳群の南側の13、14号墳の二つは、
丁寧な解説と復元図等の図解が素晴らしくて何度でも見てしまう、
嵐山町のweb博物誌の一つ、「丘陵人の叙事詩」によると、
上石堂古墳群となっているじゃろか。
それはそうとして、町の指定史跡になった時に作られたと思われる、
現地の案内板には、「...ここ山王の二十基ばかりを...」と書かれております。

P1430982
■これ。
 1994年の分布調査報告書では、山王古墳群は14基となっていて、
 2004年の「埼玉の古墳」でも14基であります。
 S61(1986年)には20基が現存していたのでありましょうか?
 それとも、石堂古墳群(4基)、川坂古墳(1基)など、
 周辺の古墳も合わせた数だったのか?
 これが素朴な疑問であります。
 残存している古墳は、現在「オオムラサキの森」として保全管理されているので、
 おまけというか、好運にも消滅する心配はないのが、
 うれしいところであります。
 ※埼玉の古墳
  塩野博(2004) 『埼玉の古墳:比企・秩父』 さきたま出版会.
 ※分布調査報告書
   『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』 埼玉県立さきたま資料館(1994)埼玉県教育委員会.


P1430996
■山王古墳群12号墳。
 「オオムラサキの森」のコアな場所は、
 観察路が古墳の周囲を回っていて、この季節であれば、
 近づいてじっくり見ることができるのもありがたいところであります。
 ただ管理地内でも、その外側に近いところは下草で見にくかったり、
 近くまでいけないものもあったりとであります。

P1430999
■同じ12号墳を西側から。

P1430994
■右の笹山が山王古墳群11号墳。
 左に12号墳、中央に9号墳。奥に7号墳が見えております。
 密集具合を感じるところであります。

P1430992
■10号墳を西から。
 石室材が見えているのかしら。

P1440001
■7号墳。

P1440003
■右の盛りが8号墳?

P1440005
■茂みで近づかないとわからない5号墳。

P1440008
■4号墳。
 古墳群には、特別に大きなものはないのだけれど、
 これはなかでも大きい方なのではと感じました。

P1440013
■奥が半カットの6号墳。

P1440010
■その6号墳の裾からは、二つの円墳が見えております。
 9号墳と12号墳でありますか。

P1440014
■隣接する民家の庭に、7号墳がはみ出しております。

P1440015
■2号墳。

P1440016
■違う角度から2号墳。中央右の木立の中。

548e9f182
■現地「オオムラサキの森」案内板と古墳のだいたいの位置。
 一つ前の写真で自転車を止めている場所は、
 とがった先の場所で赤矢印であります。

P1440020
■少し離れた場所にある1号墳。

P1440023
■さらに離れた先から見る山王古墳群。
 中央奥から左手の木立にかけてがそうであります。
 して、山王古墳群だけではなく、菅谷館跡を囲むように存在する、
 いくつかの古墳群の分布を考えたら、
 菅谷館跡も、古墳群の上に築かれているのだろうと思うのでありました。
 土塁の中に埋もれている古墳もあったりして。うみゅ。
 それから、何度も何度も走っている都幾川の桜堤のエリアには、
 行司免遺跡と古墳跡があり、そのそばの笛吹峠に向かう途中には、
 粟津ヶ原古墳群があるということを知ったので、
 それらを訪ねて、改めて周囲を回ってみたいと思うのでありました。

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